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長谷検校と九州系地歌

※この文章は、京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター久保田敏子教授にご執筆いただき、これまでコンクールのプログラムに掲載したものです。

■もくじ
長谷幸輝について
1)九州系箏曲の源流

2)宮原検校一門

3)九州系箏曲地歌の東上
4)東京に出た九州系地歌箏曲家たち
5)九州系地歌の特色
6)九州系箏曲地歌家略系譜
7)九州系独自の地歌箏曲
7)九州系独自の地歌箏曲 2
8)九州系に至る地歌箏曲の系譜
9)長谷検校と九州系地歌
10)地歌箏曲の伝承について

宮原検校一門

宮原検校は若い頃から京都へたびたび出かけて、当時の新曲を学んで帰っていた。また、検校に登官後は、久留米藩主の有馬家から五人扶持を賜って、仕置役も勤める重鎮として、中央の京都でも良い顔であったらしく、八重崎検校(1776?〜1848)とも親しかったようだ。かの石川勾当が作曲した「八重衣」の披露演奏を聴いた宮原検校は、他の人々が良い評価をしなかったことを惜しんで、八重崎検校にうまく持ちかけて箏の替手を作るように仕向けた話はよく知られている。そのおかげで、「八重衣」が今に至るまで、名曲として受け継がれているといっても過言ではない。

また、宮原検校は師匠の田川勾当を追善して地歌「水の玉」を作曲しているが、ここには三味線組歌「揺上」の手が用いられているので、地歌にも精通していたと思われる。

この宮原検校門下からは多くの名人が輩出し、今日の九州系の地盤を作った。門人としては、林検校・宮崎勾当・本田勾当・高藤勾当・光瀬之一・菊寿一などが知られているが、宮崎勾当からは長谷幸輝が出ているし、本田勾当からは高野茂が、高藤勾当からは山下松琴が出て鈴木鼓村の京極流箏曲にも繋がっている。菊寿一からは松島糸寿が、光瀬之一からは笹尾竹之一・坂本陣之一・古賀城武が出ている。この古賀城武は、林検校にも師事し、また一方では富士松紫朝について新内節を学んで、二代目紫朝を襲名した。その他、大阪の二世津山検校春寿一(後の豊賀検校、1798〜1853)から三味線組歌の伝授を受けた寺崎勾当や、津山検校の内弟子をしていた鶴寿一などが戻ってきて、大阪系の芸をもたらした。鶴寿一は佐賀の出身で、故郷に帰って、佐賀に大阪系の芸風を広めている。これに対して宮原門下の芸風を京系ともいう。

ところで、久留米では、藩主有馬家の改革によって、「絹物禁止・遊芸法度」の法令が出されたために、宮原一門は生活のために、久留米を出て下関・長崎・熊本・八代などへ散って行かざるをえなくなった。しかし、これが却って宮原派の芸を九州全域に広める結果となったのである。

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九州系箏曲地歌の東上

九州地方は、音楽文化の発展の上でも重要な地域であったといえる。箏曲の直接の源流となった筑紫箏も北九州の久留米で成立したし、盲僧琵琶の発展においても九州は重要な文化圏であった。さらに、明治になると、新政府の要人となる優れた人材が輩出した。彼等が新首都の東京に進出して行くのにつれて、音楽に携わっていた人々、特に琵琶楽、九州系箏曲地歌の人々も相次いで東上していった。道中の上方に留まる人もいたが、多くの人が、東京に進出したのである。

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