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長谷検校と九州系地歌

※この文章は、京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター久保田敏子教授にご執筆いただき、これまでコンクールのプログラムに掲載したものです。

■もくじ
長谷幸輝について
1)九州系箏曲の源流
2)宮原検校一門
3)九州系箏曲地歌の東上
4)東京に出た九州系地歌箏曲家たち

5)九州系地歌の特色

6)九州系箏曲地歌家略系譜
7)九州系独自の地歌箏曲
7)九州系独自の地歌箏曲 2
8)九州系に至る地歌箏曲の系譜
9)長谷検校と九州系地歌
10)地歌箏曲の伝承について

九州系地歌の特色

(1)一面一挺への試行

九州系地歌の特色は、一言でいえば、三味線へのこだわりにあるといえる。

その第一は、これ迄にも触れてきたように、三味線の改良であるが、最初にその改良を手がけた人は、もちろん今日の九州系の祖となる宮原検校であった。

宮原検校は、たびたび京都に出ては、京地歌に親しんでいたが、当時の京都での楽器編成は、箏一面、三弦二挺が主体であった。その理由は、京都の三味線は、小振りで華奢な柳川三味線で、撥も薄くて小さかったことによる。それは、丁度、元禄期の浮世絵などで見られる初期の三味線さながらの楽器で、棹も細い。現在も「柳川三味線」の名で、京都の柳川流の極一部で演奏されている。宮原は、これに対抗して、箏一面、三弦一挺という形式を確立させようと試みたのである。そのためには、京都の三味線よりも、大きめの楽器と撥とを工夫する必要があった。そうして始まったのが楽器の改良である。

(2)三味線の大型化と撥の改良

太棹三味線で伴奏する義太夫節浄瑠璃が盛んであった大阪では、その影響下に、地歌三味線の胴も少しずつ大型化され始め、それに伴って棹も太めになっていった。それに伴い、撥も当然工夫された。既に琵琶の世界でも、特に薩摩琵琶では、撥先の開きが極めて大きい撥が用いられ、ドラマティックな表現を可能にしていたが、地歌界でも撥の大型化が始まっていた。

大阪では、既に初代津山検校慶之一(?〜1836)が、持ち手が、義太夫の撥のように太いながらも、撥先は義太夫の撥のように分厚くなく薄目にして、先端の開きをかなり大きくした撥を工夫した。そのためには、持ち手から撥先に向かう途中が、段がついたようになって、極端に薄くなっている。これが、津山撥と呼ばれる地歌用の撥で、現在でも、個人差に適応した津山撥が用いられている。それとは別に、宮原検校も撥の大型化を試みていたといわれる。

(3)駒の改良

三味線が大きくなるにつれて、駒も大きくなっていき、幅も広く、背も高くなった。これを「台広駒」というが、特に皮を強く張るようになってからは、義太夫三味線に準じて.駒の底に鉛を入れて、小さいままで重くする「鉛駒」も工夫された。その最初の考案者は、宮原検校門下の村石光瀬之都(1826~75)であったといわれている。

その後も三味線本体の改良に伴って、駒の工夫もさまざまに行なわれたが、長谷幸輝も義太夫節の豊沢団平の弾く太棹の音を聞いて大変感動し、彼の楽屋に通い詰めて色々な工夫を試みた。

また、大阪に居た富崎春昇も、別途、独自に改良を試みていたが、大正6年(1917)に長谷幸輝に出会ってからは、その影響下に九州型に近づけていったと、富崎自身が芸談に記している。

(4)九州型三味線の完成と普及

こうした改良途上の楽器を完成させたのは、長谷門下の川瀬里子である。特に、三弦師の鶴屋の協力の下に棹の鳩胸の所を角張らせて、下の方の勘所を押さえ易くし、また、義太夫三味線と同じくらいに大型化してしまった地歌三味線を再び長唄三味線よりやや大きめな程度に改め、それに伴う駒や撥の改良も行なった。現在、地歌演奏家が広く愛用している三弦は、まさにこの三弦である。

(5)九州系地歌の特色

こうした改良の結果、九州系地歌演奏家の奏でる音色には、地歌発祥の地の上方系とは異なる味わいが加味されるようになった。

合奏に於いては、一メリという低調子で始めたり、箏を含めず三弦の本手替手を重宝することも多い。三弦の音色にも渋い独自の嗜好が見られるが、特に、勘所へ移行する際にスリを伴うポルタメント奏法も、しばしば指摘されるところである。この奏法によって、上品な色艶の加わった味わい深い音色が醸し出されるのである。

しかし、こうした音色の嗜好は、歌の節扱いと共に個人差も多く、また、曲目の種目によって、常に適応するか否か、一概には言えないことも確かである。(続く)

次へ:6)九州系箏曲地歌家略系譜

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