ホーム > 長谷検校と九州系地歌 > 九州系箏曲の源流
※この文章は、京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター久保田敏子教授にご執筆いただき、これまでコンクールのプログラムに掲載したものです。
ご承知の通り、「地歌」(上方で生まれた座敷音楽で、三味線を伴奏とする歌曲)と、「箏曲」(箏だけの技を聞かせる純器楽曲としての箏曲の他、箏を伴奏とする歌曲と、「地歌」に彩を添える伴奏)とは、平家琵琶や胡弓とともに当道座(男性盲人の職能団体)の占有職業であった。
近世の箏曲は、八橋検校(1614〜85)に遡ることができるが、その重要な弟子の一人であった北島検校の弟子、つまり八橋の孫弟子の生田検校(1656〜1715)からの流れを生田流という。その生田流の流れも、生田検校の孫弟子の安村検校の弟子たち、つまり生田検校の曾孫弟子あたりから、芸の系統がさらに枝分かれしていった。
生田検校の曾孫弟子の浦崎検校からは京都の生田流が、同じく久村検校からは名古屋の生田流が生まれ、同じく長谷富検校からはやがて江戸に山田流が生まれることになる。
また、同じく生田検校の曾孫弟子の石塚検校(18世紀後半に活躍。1775年検校登官)からは市浦検校が出て、芸名に「中」の字が付く大阪の中筋の新生田流が生まれた。この市浦検校は、大阪オランダから伝来したオルゴールを聞いて、それをヒントに一風変わった箏の調弦「オルゴール調子」を工夫した。この調弦による古曲「万歳」の箏替手を「オランダ万歳」といい、よく知られている。
さて、九州系の祖として有名な人は宮原検校(?〜1864)であるが、その源流はオランダ調子の市浦検校と相弟子だった大塚勾当に始まる。つまり、八橋から→北島→生田→倉橋→安村→石塚→大塚→田川勾当→宮原へと伝承されてきたのである。つまり、九州系箏曲の先祖は大阪系の新生田流と同じだといえる。