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長谷検校と九州系地歌

※この文章は、京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター久保田敏子教授にご執筆いただき、これまでコンクールのプログラムに掲載したものです。

■もくじ
長谷幸輝について
1)九州系箏曲の源流
2)宮原検校一門
3)九州系箏曲地歌の東上
4)東京に出た九州系地歌箏曲家たち
5)九州系地歌の特色
6)九州系箏曲地歌家略系譜

7)九州系独自の地歌箏曲

7)九州系独自の地歌箏曲 2
8)九州系に至る地歌箏曲の系譜
9)長谷検校と九州系地歌
10)地歌箏曲の伝承について

九州系独自の地歌箏曲

今、<九州系>と呼ばれている作品は、さほど多くはないが、「蜑(あま)小舟」「大内山」「尾上の松」「水の玉」などがその代表曲と言えよう。

また、九州系の演奏家であった鈴木鼓村(1875~1931)が明治の末に創流した大変珍しい箏曲の流派に「京極流」というのがある。この流派は、雅楽の箏や催馬楽のような歌物、現在の箏曲の直接の祖となる筑紫箏や八橋検校の古態を伝える八橋流などの古流の「箏組歌」の奏法を基本として、その「侘び」と「渋み」を保ちつつ、薄田泣菫・高安月郊といった清新な新体詩を歌詞として叙情味豊かに詠う箏曲の流派で、「古き革袋に新しき酒を盛る」をモットーにしている。現在、この流派に属する人はごく僅かではあるが、この流派の「花売女」という曲の楽譜は、京都に於ける九州系の代表的奏者であった福森登志子師が作譜し、公刊している。この曲については、後の機会に触れる。

先ずは、他派ではほとんど演奏されない「蟹小舟」「水の玉」あたりから順に紹介しよう。

<蟹小舟(あまおぶね)>
【歌詞】 ♪雁は北、人は南に帰る海、己が小舟に棹さして、涙の雨に濡るる海士、草の枢(とぼそ)の故郷(ふるさと)へ、.行く春惜しむ恋衣、着つつ馴れにし棲重ね、幾夜仮寝の旅枕、交はせし事の数々を、<手事> ♪関の空音の鶏もがな、また逢坂の折を待ち、秋澄む月を二人眺めん。

作詞・作曲者とも不明であるが、久留米の宮原検校高(孝)道一(?~1864) から伝承されてきた三弦の地歌に、宮原の孫弟子にあたる熊本の笹尾竹之郁(1855~1938))が箏の手を付けたものが、現在も行なわれている。

宮原検校については、以前述べたことがあるが、簡単に再掲すると、八橋検校城談には幾人もの優秀な弟子がいたが、その一人の北島検校城春から →生田検校幾一 →倉橋検校しゅんせう一 →安村検校頼一 →石塚検校りう一 →大塚勾当へと、脈々と伝承されてきた。そして、大塚勾当の弟子の田川勾当の門人として修業したのが宮原検校である。宮原は京都で修業の後、郷里へ戻って、久留米藩主の有馬家から五人扶持を賜って、仕置役を務めていた程の大物であった。言うまでもなく、三味線にも箏にも秀でていて、京の職屋敷(全国の男性盲人の職能団体である当道座の中央支配機関)でも一目置かれていたようだ。八重崎検校に上手く持ちかけて、石川勾当の「八重衣」に箏の手を付けさせたという逸話はよく知られている。門下にも逸材が多く、長谷幸輝検校の師匠宮崎勾当を始め、高野茂の師匠本田勾当、米川琴翁の祖師林検校正安一、笹尾竹之都の師匠村石光瀬之一、鈴木鼓村の祖師高藤勾当、初代野坂操壽の祖師大塚菊寿などがいる。

「蟹小舟」の歌は、海士(あま)の恋人がいた長崎の蘭方医の娘が、気に染まない相手と結婚させられて、歎き悲しむ様を歌ったものと伝えられている。
歌詞は、「渡り鳥の雁が北の国へ帰る春になると、恋人の海士も南の天草(歌詞中の下線部分に「あまくさ」と詠み込まれている)へ小舟に乗って帰ってしまう。恋人に再び逢うことが叶って、共に秋の月を眺めたいものだ」と歌っている。「恋衣~」は『伊勢物語』九段「東下り」にある在原業平の歌「唐衣、着つつ馴れにし、褄しあれば、遙々来ぬる、旅をしぞ思ふ」を引いている。この歌は「かきつばた」を五七五七七の頭に折り込んだ有名な「折句」で、「き(着・来)つつ」「な(馴・褻)れ」「つま(褄・妻)」「はるばる(遙々・張々)」「き(来・着)ぬる」などの掛け詞もある。金春禅竹の能「杜若」の題材にもなっている。

「蟹小舟」の構成は、前歌―手事―後歌という手事物の標準的な三部分形式で、手事にはチラシ(手事の後奏。歌の無い手事の緊張を弛めて、後歌へ繋ぐ役割を担う部分)が付いている。調弦は、三弦は本調子で出て、後歌で二上りになり、箏は半雲井調子から平調子に変わる。演奏時間12分足らずの洒落た小品である。公刊譜も出ている。

<水の玉(みずのたま)>
【歌詞】♪覚めて逢ふ夜もありなまし、こは化野の白露と、消えては名のみ久方の、空に思ひの浮き雲や、絶えぬ涙は音無しの、滝と乱れて玉の緒の、永くもがなと皆人の、祈りし甲斐も夏衣、着つつ馴れにし妻琴や、また三つの緒のこの調べにも、<手事> ♪昔恋しや懐しや、たとへて言はば春の花、秋の紅葉と仰がれし、その面影は有明の、月の光の影清き、田川の水の流れをば、幾千代かけて汲むならん。

前述の「蜑小舟」を伝えていた久留米の宮原検校高道一が、師匠の田川勾当の追善に作曲した地歌で、歌詞に「田川の水の流れ」と、田川勾当の名前が詠み込まれている。ただ、田川勾当の生没年が不明のため、作曲年代は判らない。箏の手付け者も定かではないが、長谷幸輝検校の弟子の福田栄香(1880~1961)からの伝承が、今に残っている。

「化野」は、京都の嵯峨野の奥、小倉山の麓の風葬の地で、『徒然草』七段にも「化野の露消ゆる時なく、鳥辺山の煙立ち去らで」と記されているように、火葬場のあった鳥辺野とともに古くから知られていた。「あだし」にかけて、儚い物事の象徴としても用いられる。「甲斐も夏衣」は「甲斐も無(し)」を掛け、「着つつ馴れにし」は、「蟹小舟」と同様、『伊勢物語』の古歌を引いて「つま」から「妻(爪)琴(箏)」を導き出している。箏の絃が「十余り三つの緒」であることから、「三つの緒(三味線)」を引き出し、箏や三味線の技に優れていた田川勾当の偉業を讃え、その伝承が幾久しく続くことを願っている。

調弦も曲の構成も「蟹小舟」と同じであるが、この曲の方が少々手事の規模が大きく、マクラ→手事→中ヂラシ→後ヂラシから成っている。なお。前歌や後歌にも箏と三弦の掛け合いがある点に、この曲独自の工夫がある。

追善曲ではあるが、もっと広く一般に演奏して欲しい作品である。

7)九州系独自の地歌箏曲 2

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